エーリッヒ・フロム『愛するということ』より
人はなぜ愛を必要とするのか
なぜ愛についてこんなにも論じなければならないかというと、人間は一人では生きていけないからです。
これまで人間は自由を求めてきましたが、自由を得た結果、皆が孤独になってしまいました。そして、孤独から抜け出そうとすると「愛」に行きつくのです。
人はひとつの独立した存在であり、人生は短い。人は自分の意志とは関わりなく生まれ、自分の意志に反して死んでいく。人間は孤独で自然や社会の力の前では無力だ。
こうしたことすべてのために、人間の統一のない孤立した生活は、耐えがたい牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人々と、何らかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう。
孤独こそがあらゆる不安の源であり、人間の最も強い欲求とは「孤独の牢獄」から抜け出したいという切実な思いです。これほどまでに人間が孤独を恐れるのは、一人で生きていく力を持っていないから。
部屋にひきこもっていても、生きるためには経済活動や身の回りのことをする必要があるように、人は独りでは生きられないのです。
自我と孤独の関係
孤独とは【自我】の問題とフロイトは考えました。自我とは、私(これが自分だ)と思っている概念です。ただ、この自我(私)は、自然に生まれるものではありません。
自分と他人の区別がつくようになると「自我」が形成され、また成長と共に変化し、いつの年齢においても、そのときに「自分」だと思えるものが「自我」です。
動物は食欲や睡眠欲など本能に従って生きていますが、人間は体に悪いと思いつつ夜更かししたり、食べ過ぎたりしてしまいます。
これをフロイトは「人間は本能が壊れている」と分析したのです。本能が壊れたまま放っておくと、死を迎えるため、自分を規制するコントロールタワーとして【自我】を身に付けたと考えました。
ただし、自我(私)がきちんとあれば、本能が壊れても大丈夫とは言えません。自我は弱く、存在基盤が無い”空想上のもの”であり、脳の中に「自我」という部分があるわけでもないからです。
実際のところ、「私が私と思っているもの」は一種の幻想に過ぎず、他人から承認されることで、かろうじて「自我」を守っていると言えます。
つまり「自我」は自分で自分を支えられないので、「自我」を支えるために他者が必要なのです。そのため、孤独で居ると「自我」は支えようがなくなってしまいます。
(三島コメント)ここにエゴ(自我意識)のすべてが出ていますね。エゴで生きると、常に他人を必要とする不安定な人生にならざるを得ません。自分が機嫌よく生きるために他人を利用する生き方。
エゴを卒業しないかぎり、他人を犠牲にして自分が生き延びているだけです。「自我」自体は悪者ではありませんが、自我が強くなってエゴ化すると生きづらくなります。
孤独を逃れる3つの手段
①祝祭的興奮状態:つかの間の高揚状態の中で、外界は消え失せ、それとともに外界からの孤立感も消える。
【例】アルコール、麻薬など「快楽」で気を紛らすこと。しかし依存性も強いので身を滅ぼすこともある。
②集団への同調:集団に同調することによって、個人の自我はほとんど消え、集団の一員になりきることが目的となる。思想や感情を持たず、習慣においても、服装においても、思想においても、集団全体に同調すれば、私は救われる。
【例】サッカーの応援。一人でも応援はできるが、皆と一緒なら一体感を得られる。
③創造的活動:それには芸術的なものもあれば、職人的なものもある。どんな種類の創造的活動の場合も、創造する人間は素材と一体化する。
【例】絵画、小説、音楽、大工さんがテーブルを作る、農家が野菜を作るなど、自分だけの世界に浸って孤独を忘れる。しかしこれらはすべて一時的なもの。SNSも一時的に孤独を逃れるもの。
これらを否定はしませんが、これだけでは孤独は解消できないでしょう。
①瞬間的に終わって楽しい時間のほうが短いから、また孤独に戻ってしまう
②良いように見えるが、自由を求めて集団から逃げたくなる
③創造的活動で得られる一体感は人間どうしの一体感ではない
SNSはコミュニケーションが目的のコミュニケーション。だから内容もありません。
相手の事を知りたいのではないので「反応」さえあれば良く、つながっていること自体に意味や価値を見い出しています。そのため、期待した反応が返って来ないと、より孤独に陥るのです。
サディズムとマゾヒズムの共棲的結合
共棲的結合(きょうせいてきけつごう)
=支配(サディズム)と服従(マゾヒズム)の関係
孤独から逃れて人とつながることを求めると、「共棲的結合」という関係に陥る場合がある。サディストは自分を崇拝する他者を取り込み、服従した人を自分の手足として使う。
マゾヒストは自分に指示し、命令し、保護してくれる人物の一部となりきる状況に、喜びを感じる。
妊娠している母親と胎児の関係が「共棲的結合」の生物学的な形です。母親と胎児は二人であると同時に一人であり、二人はともに生き、たがいを必要としている関係性。
胎児は母親の一部であり、必要なものはすべて母親から受け取るため、母親が胎児の全世界になっています。
その一方で、母親は胎児に栄養を与えて保護しますが、同時に彼女自身の人生は胎児によって広がりを持ちます。
共棲的結合において、一人ではサディストもマゾヒストもできないため、お互いに寄りかかって、お互いに必要としている関係と言えます。
どちらも孤独から逃れたい欲望から相手を必要とし、依存し合う関係に陥ります。つまり、共棲的結合に陥る前提条件は「孤独であること」です。
サディストの母親は「あなたが幸せなら、それでいいの」「あなたの幸せが、お母さんの幸せ」が決めゼリフ。
これは額面通りの意味が込められた言葉ではなく、「お母さんを幸せにして」という幼児的愛情欲求(エゴ)です。本当の愛は子供に要求などしません。
孤独への恐怖を回避するには
孤独への恐怖を回避する完全な答えは、人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち「愛」にあります。自分以外の人間と融合したいという欲望は、人間の最も強い欲望です。
この世に「愛」がなければ、人類は一日たりとも生き延びることはできません。その意味では人類全体の「愛」が大切です。
最終的に、人と人をつないでいるのは「愛」だから、本当の愛によってつながっていないと人類は存続できないのです。
ところが多くの人は「本当の愛」を知らないうえ、「愛」が大事だと思わないかぎり、誰も愛する技術を身に付けようとも思わないのが現実です。